根 来 寺


 「一乗山大伝法院根来寺」は平安時代後期の僧覚鑁(かくばん)上人が開創します。
 このお寺の前身は上人が高野山に登り、当時のお山の状況を目にして弘法大師開創の真言密教を正しく伝える必要を感じ、高野山に建立した伝法院(でんぽういん)です。
 この伝法院は空海(弘法大師)が唐から持ち帰った密教の学問に僧が励むための”伝法会”(でんぽうえ)を開くためのものです。
 もともと高野山は弘法大師がこの密教の修行・学問の場として開いたお山で、弘法大師が亡くなった後も甥である真然(しんぜん)がその意思を継いで”伝法会”を開いていたのですが、真然が亡くなった後この”伝法会”は中断してしまいます。
 この中断に対して鳥羽上皇が仏法の衰退は国家の衰退に結びつくと考え、鳥羽上皇は覚鑁上人を支援し伝法院を建立・”伝法会”を復興してもらいます。
 またこの伝法院が拡張され、落慶法要には当時の国の最高権力者が参列し、覚鑁上人へ荘園の施入が相次ぎ急速に高野山山上で勢力を伸ばします、そしてついには金剛峰寺と肩を並べるまでになります。
 こうなると当然面白くないのは高野山に古くからいた旧体制の僧で猛烈に反発します、1134年の6〜8月にかけて金剛峰寺は鳥羽上皇に対して伝法院勢力を非難する奏状を捧げ仏事を放棄し高野山から離山してしまいます、これに対し鳥羽上皇は覚鑁上人を全面支持し離山した僧たちを追放とした上に金剛峰寺と伝法院の座主を覚鑁上人に任せます。
 しかし覚鑁上人は直後に両寺の座主職を他に譲り無言行に入ります。
 それでも金剛峰寺からの嫌がらせ(?)は続き、ついに覚鑁上人は高野山を後にします、その後1143年12月に49歳で円明寺にて亡くなります。
 この後も金剛峰寺と伝法院との間では争いが絶えず、1286年の争いを契機に伝法院は高野山から根来の地に拠点を移します。


 移転した当初の根来寺の規模はそれほど大きくなかったようですが、南北朝時代になると泉南地域にまで勢力を伸ばし、財源を手にした根来寺はかつて高野山にあった堂塔などを根来の地に復興することを目指します。
 室町時代には僧侶が暮らす坊院が450を超えこの地域の権力を握るようになり、堂塔2700・寺領72万石と言われ真言宗三大学山の一つとして全国に知られるようになります。
 また戦国時代には修験道の行者でもある僧兵が実権を握り、大量の鉄砲を保有して寺領等を防衛します。
 しかしこれが秀吉に恐れられようになり、”摘める間に”と考えられたのでしょう、1585年3月に根来攻めに会い壊滅してしまいます、この時の銃撃戦の弾痕が大塔の右側面に今もなお残っています。
 この後江戸時代後期に徳川重徳とその母の支援を受け今日見ることのできる根来寺が復興されます。


         - 根来寺の歴史と文化 -
         (和歌山県立博物館)より


写真にはありませんがこのお寺の大門はあの”羅生門”を思い出すような立派なものです。

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