高貴寺

 このお寺の山号は”神下山”です、ここに香華(こうげ:仏にお供えするお花)が多いことから以前は香華寺(これが後に高貴寺に変化)と呼ばれていたと伝えられていますが、境内の説明には香華を”神下”とも書かれることもあるので、この香華が山号名の由来であり、寺名は違う意味を持つのかもしれないとのこと。(不明だそうです。)


 資料によっては”弘法大師が32歳のときここを訪れ、高貴徳王菩薩を彫りここに安置して寺名を高貴寺とした”と記述されています。

交通(最寄り駅など)

お寺には駐車場があるので、車での参拝がいいです。

高貴寺の境内

高貴寺の境内

 弘法大師が堂塔を建立し、後にその弟子 智泉大徳に譲与されます、南北朝時代にはこのお寺は南朝側につき、寺の西にある楠木氏の城である平石城が攻められる際に伽藍が戦火に焼かれることになります。


 以後数百年にわたって、再興されなかったのですが安永4年の春になって慈雲尊者がこのお寺に30年留錫したことで皇室からも帰依され、徳川幕府からも正法律高貴寺一派総本山の許可を得ることとなり、慈雲尊者は伽藍を修復・再興します。


 また、磐船神社はもともとこのお寺の鎮守でしたが、神仏分離によって離れました。


 他に弘法大師が一夏(陰暦の4月16日から7月15日までの90日間)、ここに滞在し求聞持法(虚空蔵菩薩を本尊として修する行で記憶力を増大できる)の行をします、また”磯長山 叡福寺”へ毎日参拝(一歩一礼して拝参)したところ、叡福寺の御廟から九十九日夜にわたって音楽が聞こえてきて阿弥陀仏の三尊が御来迎されたと伝えられます。

高貴寺の境内
高貴寺の境内

高貴寺