檜尾山 観心寺(高野山真言宗)


古寺や秋悲しけに仏達 (蝶夢)

 この観心寺は河南の3大名刹(観心寺・金剛寺・河合寺)のひとつにあげられたお寺です。

 楠木正成ゆかりのお寺としても有名でNHKの”太平記”が放送されている時は多くの観光バスで賑わいました、もちろん”太平記”の放送が終了した現在でも多くの人が参拝に訪れます。


 お参りには入山料が必要です。

交通(最寄り駅など)

 南海電鉄の「河内長野」駅から南海バスに乗車し「観心寺」バス停で下車します、このバス停は観心寺の手前にあるので下車してからバスの進行方向へ少し歩きます(信号のある交差点を超えます)。

お寺には駐車場もあります。

参拝のお勧め時期

観心寺の梅

四季を通じて花(梅・桜・睡蓮・椿など)や紅葉がきれいなお寺です、なかでも境内の雰囲気とよくあうのは梅だと思います。

山門

檜尾山 観心寺

 観心寺は701年に役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、当初は雲心寺と呼ばれていました、これを観心寺と寺号を改称したのは平安時代初めの808年にここを訪れた弘法大師です。

 以後観心寺は高野山と奈良・京都の中継地として発展します。

 この観心寺の本尊 七星如意輪観音は国宝で秘仏(毎年4/17と4/18開扉)です、また資料では弘法大師作とあります。


観心寺境内

お正月に初詣に訪れるとこの観心寺の境内に出店が並び賑わいます。


 観心寺に祀られる楠木正成は延元元年5月廿五(25)日、摂州湊川(現 神戸)で戦死しますが、その忠義が賞され首を楠家に送られます。

 これを息男正行が中院滝覚(正成の師匠)に依頼して埋葬してもらいます(観心寺の境内奥に首塚として祀られています)、身躯(体)の方は兵庫坂本村(現神戸)の広厳寺の境内に埋葬されますが、このお寺が後に衰微し埋葬地に僅かなしるしだけになってしまっているのを元禄4年水戸黄門光圀公が石碑を建て整備しなおします。

檜尾山 観心寺

中院(ちゅういん)

檜尾山 観心寺の中院(ちゅういん)

 楠木家の菩提寺であり、正成が8歳から15歳までの学問所であったところです、また、正成の戦死後に長男正行が切腹しようとしたところでもあります。

金堂

檜尾山 観心寺の金堂

 この建物は大阪府下最古(室町時代初期)の国宝建造物ですが、たびたび修理されているためか古さを感じさせないきれいな建物です。


 こちらに如意輪観音が(脇に)不動明王・愛染明王と共におられます、また、この金堂前に弘法大師が七星降臨を礼拝された石(礼拝石)があります。

建掛塔(たてかけのとう)

檜尾山 観心寺の建掛塔(たてかけのとう)

 この建掛塔は重要文化財です。


 その名の通り、建て掛けの塔です。

 本当は正成が報恩のため三重塔建立を誓願するのですが、完成するまでに正成が戦死してしまったので中断してしまい仮の屋根(藁葺)の状態で残っています。

 また、九輪(塔の上にある(装飾のある)避雷針の様なもの)もあったそうですが、北朝の兵士が下ろしてしまったのだそうです。

楠木正成御首塚

檜尾山 観心寺の楠木正成御首塚

 正成が戦死後に足利尊氏の命により首が返され、祀っている所です。

 中に入ることはできませんが、資料によると使われている(角惣一式)石は正成が戦死した地の石である御影石が使われているとのことです。

道興大師御廟

檜尾山 観心寺の道興大師御廟

 道興(どうこう)大師実恵(じちえ)は俗姓を佐伯とおっしゃるそうで、四国の方だそうです。

 道興大師は淳和(じゅんな)天皇から伽藍建立を拝命し、弟子の真紹(しんしょう)と共に天長4年(827年)より観心寺の造営工事に着手されます。

 承和14年(847年)11月13日に63歳(?)で亡くなります。(資料には”63歳に見へたり”とあります。)

檜尾山 観心寺(高野山真言宗)